建学の精神・創設者紹介 | 鈴鹿享栄学園 鈴鹿高等学校

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建学の精神・創設者紹介

建学の精神・創立者紹介

建学の精神

誠実で信頼される人に

誠実で信頼される人に

鈴鹿享栄学園の源流である、享栄学園の創立者 堀 栄二先生は、明治38年(1905)渡米、8年間アメリカで勉学し、当時としては新しかったアメリカ的商業教育を導入した実践的な努力家でした。大正2年(1913)帰国するや、逸早く享栄ビジネスカレッジを創立しました。次いで、享栄デパートを創立、一時期は貿易商の社長をも兼ねるなどの活躍をしながら、教育と経済社会とを結びつける、いわゆる「実社会に役立つ教育」の実践を行いました。

享栄ビジネスカレッジは、その後享栄貿易商業学校と進展しましたが、創立者が常に生徒に説いたのは、世界的視野、進取実践、貿易立国等でした。しかし、精神的にはアメリカナイズされることなく、日本を愛し、日本の文化、歴史を大事にしました。また私的な面では、家庭生活において、大層仏教に帰依し、昭和5年(1930)には、享栄寺本堂をも建立して、自分自身の信仰だけに止まらず、広く有縁者に宗教的影響を与えました。

昭和21年(1946)創立者の後をうけて学園の責任者となった堀 敬文理事長は、創立者の教育に対する考え(いわゆる建学の精神)をどのように表現するかについていろいろ考えました。

当時のわが国は、食糧をはじめ極度に物資不足に悩み、国民は敗戦のショックで何を信じてよいかわからず、なにかにつけて不信感で満ちていました。このような時代において、わが学園を、誠実さを基にして生徒は教師を信頼し、教師はまた生徒を信頼することのできる教育の場にして、ここで培った信頼感を社会に広げたいと念願し、「誠実で信頼される人に」という校訓を掲げ、更にその具体的目標として、堀 敬文理事長は次の諸点をとりあげました。

由来について

  • 本学園に「享栄」の名称がついたのは、大正4年(1915年)4月「享栄学校」として認可されたときからです。
    学園のアメリカ式実務教育に興昧を持っていた名古屋市長阪本釤之助氏(在任明治44年(1911年)7月~大正6年(1917年)1月)が創立者堀栄二先生に名付け親を頼まれ「有陰徳者必享其栄」とお書きになったのが、もととなりました。

1.あてになる人物になろう

あてになる人物とは、頼りになる人、信頼できる人、頼もしい人のことである。付和雷同しない思慮の深さと意志の強さをもつ人、和して動じない勇気をもつ人である。お互いに不信をいだかなければならないような社会ほど不幸な社会はない。現代人の危機は、人問がお互いの信頼性を欠いている点にあるのではなかろうか。

2.働くことの喜びを知ろう

日本人は、本来勤勉な国民である。戦後の荒廃から立ち上がり、今日の経済的繁栄をもたらしたのは日本人の勤勉さの賜である。勤勉な資質の裏付けがあってはじめて、豊かさを享受することができ、生活にゆとりを持つことが可能となろう。われわれは自己の仕事を愛し、仕事に忠実であり、仕事に打ち込むことができる人でなければならない。

3.全力をふるって事にあたる体験をもとう

勉学であれ、スポーツであれ全力を傾けて打ち込むことが望ましい。例えば、スポーツで、炎天下体力の限界ぎりぎりまで、強力な精神力で自己に打ち克つといった体験をすることが非常に貴重である。こうした体験は、本人の自信にもつながり、実社会にでても大いに役立つことであろう。実社会でスポーツ選手が歓迎される所以もここにある。

4.感謝の気持ちと畏敬の念をもとう

創立者は、感謝の念の強い人であった。仏教に帰依し、昭和5年(1930)に享栄寺本堂を建立したのもこの感謝の念からであった。たえず不平不満を感じる人ほど不幸な人はない。小さな好意や親切にも感謝できる人は幸福である。感謝の念に裏付けられて社会は明るくなり、健全な進歩が期待されるのである。また、われわれは生命の根源に対して畏敬の念をいだくべきである。われわれは自ら自己の生命を生んだのではない。われわれの生命の根源には父母の生命があり、民族の生命があり、人類の生命があり、宇宙の生命がある。ここにいう生命とは、単に肉体的な生命を指すのではない。われわれには精神的な生命がある。このような生命の根源に対する畏敬の念が真の宗教的情操であり、人間の尊厳と愛もこれに基づいて生ずるのである。

5.正しく日本を愛し、国際的視野を広げる人になろう

創立者は、長らくアメリカに滞在し国際的視野を身につけ、技術的にはアメリカのものを多く導入したが、精神的には強く日本のよさにひかれ、国を愛する念が強かった。今後ますます進展する国際化時代を迎え、国際社会で活躍していくためには、正しく日本を愛し、その上で、国際的視野を広げ、異文化を理解し、人間愛に基づく広い視野をもって、国際社会の要請に応えていかなければならない。今日、世界において、国家に所属しないいかなる個人もなく、民族もない。国家は世界において最も有機的であり、強力な集団である。個人の幸福も安全も国家によるところが極めて多い。自国の存在に無関心であり、その価値の向上に努めずして、その価値を無視したり、その存在を破壊しようとする者は自国を憎むものである。われわれは日本を正しく愛さなければならない。

学園創立者の紹介

誠実で信頼される人に

本学園80年余の礎を築いた創立者堀栄二先生は、明治19年(1886年)10月、紺屋業を営む堀松次郎氏の次男として名古屋市中区裏門前町で生まれました。市立名古屋商業学校を卒業後、明治38年(1905年)11月、アメリカヘの留学の途につき、大正2年(1913年)1月に帰国するまでに次々と学位を取得しました。

創立者は、自ら研鑚した米国式の商業教育でもって社会で直ぐ役立つ実業人の達成、実業教育に一生を捧げようと、「英習字簿記学会」(大正4年(1915年)以降は自ら好んで享栄ビジネスカレッジ(K・B・C)という呼称を使用)なる私塾を大正2年(1913年)6月、名古屋市中区南呉服町に開設しました。これが享栄学園の第一歩でした。創立者は朝4時には起床、門前、庭などを掃き清め仏前で勤行を欠かさない信仰の人でした。毎年5月の善光寺参り、亡父たちが建立した善光寺堂を大正15年(1926年)に天池町に移し、昭和5年(1930年)には本堂を建立、また民間信仰にも強い関心を持っていました。教育方針は米国で修得した商業教育を基礎にしており、その着想は斬新で、海外修学旅行や商業教育実習のための享栄デパートの経営など目を見張らせるものがありました。

太平洋戦争中の昭和20年(1945年)、二度にわたる空襲で享栄学園は焼け野原となりました。終戦後、軍需工場などで細々と授業を続けましたが、創立者は昭和21年(1946年)4月9日、突然の病で花の季節に先がけて急逝しました。享年60才。学園復興の悲願は堀敬文理事長に引き継れました。

歴史・沿革

1962 三重県知事より鈴鹿高等学校の設置が認可される
(享栄学園創立50周年記念行事の一環として、鈴鹿市の協力を得て、鈴鹿市庄野町に 学校開設を申請していた)
1963 鈴鹿高等学校(全日制普通科・商業科)(男女別学級)開校
初代校長に享栄学園理事長、堀敬文が就任
校歌を制定
1970 定時制家庭科を鐘紡鈴鹿工場内に設置
全日制普通科・商業科ともに男女共学となる
1971 定時制に普通科を設置
1979 定時制課程を廃止 武道場が完成
1980 普通科に特進学級を開設
1988 創立25周年記念事業として、インドヒマラヤへ国際交流遠征派遣
1989 商業科の募集を停止
1994 類別体制を実施
1998 第70回全国高等学校選抜野球選手権大会初出場
2003 40周年記念館(新体育館)完成
2004 第86回全国高等学校選抜野球選手権大会出場
2009 新校舎完成
創造・探究コースに名称変更
2010 探究コースにSクラスを設置
2012 放送部 NHK杯 全国高校放送コンテスト
ラジオドラマ部門 優勝
2013 創立50周年式典を挙行
2014 学校法人 鈴鹿享栄学園となる